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2025-11-04

第5回 フィリピン拠点をつくった日々のこと──突破し、やり切り、帳尻を合わせる

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創業から2年、私も入れて社員3名のころでした。私はある日、フィリピンに拠点を作るという決意を胸に、六本木のフィリピン大使館に向かいました。事前のアポはありません。受付で「本日の商務部の交流会に参加します」と言って、そのまま中に入りました。今思えば無謀ですが、あの瞬間の「押して入る」という行動が、すべての始まりでした。偶然そこで出会った、現地に30年暮らす日本人の方が、後のフィリピン拠点立ち上げの最大のキーパーソンになったのです。

2012年当時はまだ「海外でシステムを開発する」ということが一般的ではなく、しかし私は、近い将来「コーディングは国境を越える」と確信していました。だからこそ、波が来る前に動く。それが、私なりの“突破”でした。


現地を知る人を味方につける

結構VIPというか、フィリピンで事業をやっている人たちの集まり、交流会のようなものがあって——本来は事前予約制で、一見さんは入れないんですが、予約している“ふり”をして(笑)、名前ももちろん無いんですけど「絶対予約してます」と言って、大使館に入れてもらいました。今思えば、これもフィリピンの大らかさだったかなと思います。

よく言われていたのは、「現地で日本人を騙すのは、日本人が多い」という話で。だからこそ、現地のことを知っている、信頼できる人がいないと、事業が起こせない。拡大も難しい。そう考えて、フィリピン大使館の商務部から、フィリピンに20〜30年住んでいる方を、その場で直接紹介して頂き、人物本位で雇用しました。

縁が縁を呼び、その人を起点にフィリピンの事業は拡大していった、という感じです。紹介されたその日本人の方は、フィリピン人と結婚しており、長年のビジネス経験から、現地の制度・法律・人材市場・文化に精通していました。「この国で事業をするなら、まず“信頼の順番”を間違えてはいけない」と言われたことを、今でも覚えています。

フィリピンは人との関係の築き方に時間がかかる国です。仕事の話の前に、家族の話、食事の話、宗教の話がある。お互いに開示し合って、信頼のカードを切りながら、関係を築くのです。それを軽視し、功を焦っても、契約は進みません。しかし、一度信頼を得られれば、驚くほど力を貸してくれる。その違いを体感できたことが、海外拠点を成功させる最初の一歩でした。


オルティガスに拠点を開設

2012年、マニラ・オルティガスに最初の拠点を開設しました。役員を1人送り込み、フィリピン側では採用活動を一気にやりつつ、日本側で案件を取る。日本側にディレクションをする人を立て、送り込んだメンバーが現地でマネジメントしながら開発を進める。おおむね、そういう流れです。初月の売上は300〜400万円、初年度で約1億円。スマートフォンアプリやWeb開発の需要が急増していた時期で、私たちはその波に乗ることができました。最大で50人規模にまで拡大し、当時のArinosにとっては大きな挑戦、大きな成果でした。


異文化の壁と現場の体温

困ったのはマネジメントスタイルの違い。日本だと人前で叱っても(良し悪しは別にして)許容される場面がありますが、フィリピンで同じことをすると、強い反発が起きたり、辞めたり、プライドを傷つけたと受け止められたりする。日本スタイルをそのまま押し通すのはダメで、現地に合わせなければいけない。当時の僕らには、日本流を徹底する体力もなかったので、現地に明るい人を入れて、「フィリピンの人とはどう接するべきか」「どうマネジメントするべきか」といった文化的な理解を、組織に埋め込む必要がありました。

最初からそういう人がいたので、そこでは大きな失敗はしなかったんですが、1つ苦戦したのがデザインです。二つあって、1つ目は「豪華に」というオーダーを出すと、向こうでは“ゴールド(金色)”の世界観で返ってくる。日本の「豪華」とは解釈が違う。もう1つは、日本特有のサービスの理解。「リクナビのようなサイト」と言っても、そもそもリクナビというものを知らないから、概念説明から必要になる。コーディング自体は誰でもできるという見立てはその通りでも、感性や前提の共有に手間がかかる。このあたりは想定以上に苦戦しました。結果、デザインはきついね、となりました。

これは日本側(僕ら+クライアント側)の英語レベルの問題もありました。フィリピンは英語が公用語ですが、日本語⇄英語の翻訳は難易度が高い。加えて、デザイン感性の差は英語力が高ければ短縮できた可能性はありますが、それでも差は大きかったです。“言葉”はなんとか通じても“意味”が通じないのです。私はそこで、「現地の文脈を知ることこそ、現場を動かす条件だ」と悟りました。以降は説明の仕方を変え、欧米企業案件中心にデザイン業務をシフト。文化の摩擦を避けながら、勝てる土俵を選びました。

いまならば、AI翻訳が相互にできるため、この厚い壁も無くなったわけですが、それでも最大限の価値を産むようにプロンプトを書くのは人間であり、真ん中にAIがあっても、それぞれのエンドには生身の人間がいるわけですから、本質は変わっていないと思います。


「やり切る」ことで信頼をつくる

現地責任者を任せたのは、Tさんという社員でした。英語ができ、ゲーム開発の経験があるため肌感があり、何より胆力がありました。トラブルが起きても逃げず、最後までやり切る。仕様が変われば、即日ドラフトを出し、クライアントが困れば、自分でコードを修正して仮復旧する。その背中が、現地メンバーの士気を上げていきました。

この時に強く感じたのは、「誰が行くかで結果は変わる」ということです。同じ仕組み、同じメンバーでも、リーダーの姿勢ひとつで成果はまるで違う。やり切る人がいるかどうかが、チームを決定づけるのです。

当たり前ですが、自分で方針を決められる人。うまくいっていないとき、意思決定が全部本部に委ねられることがある。でも現地を知らない僕に委ねられても、100点は出せない。Tさんのときは「ここはこうすべきです」というドラフトが必ず出てきた。現地を知る人が課題解決策を出し、それをもとに本部と議論できるか。単なるソルジャーではなく、自分の頭で考えて進める指揮官が必要です。

Tさんの良かった点で言えば、「やり切る」。わからないことだらけでも、まず案件を取る。取らないと、フィリピン人のスキルも、何ができるかも見えない。取れば必ずトラブルは起きるが、それを早く解決し、最終的にやり切る。やり切った後、自分たちのケイパビリティを把握し、近しい案件を取りに行く。「帳尻を合わせる力」も重要。売上目標500万なら、なんとか帳尻を合わせて達成する力。できない人は最後の一押しがない。やり切った結果を標準化し、似た案件を再現できるようにする。ここまでがセットです。

とはいえ、そういう人材を採用できないなら、誰が事業責任者をやるのか。結局、自分がやり続けることになり、階層化が進まない。成功するときは、最低限の仕組みが回って、僕が現場を離れられます。ただ、その下がいなければ、また止まる。把握した課題に対し、成長させる余裕も、採用する余裕もない。これは多くのスタートアップも抱える課題だと思う。

10億までは“なんとなく”で行けるが、その先を超えるには構造が要る。大企業だと、マネージャーまで5〜6年、さらに上で7〜8年、とか。若い頃は「なぜそんなに時間がかかるのか」と思ったが、今は当然だと分かる。200人のうち数人しか上に上がれない競争の中で、体系的に育てられた人が上に立つ。僕は大企業とベンチャーの両方を経験して、それを痛感しました。結局、経営者に近づいていくファーストレイヤーを、妥協なく採用・育成するしかない。


三位一体で現場を動かす

海外での経験を通じて、私はひとつの考えにたどり着きました。それは「突破・やり切り・帳尻合わせ」の三位一体。

  • 突破する人──未知の扉を開ける勇気と判断力。
  • やり切る人──困難を前提に最後まで形にする実行力。
  • 帳尻を合わせる人──数字と仕組みで締めて再現性を残す統率力。

この三つの力が揃ってこそ、事業は前に進む。どれか一つでも欠けると、チームは立ち止まってしまう。私はこの原則を、いまもあらゆるプロジェクトで意識しています。


学び、伝え、動かす人になる

そして、この三つを支えるのが「学習力」「言語力」「コミュニケーション力」です。未知の領域に飛び込み、現地の文脈を自分の言葉で解釈する。誤解を恐れず、何度でも説明し、伝わるまで粘る。チームの温度を保ちながら、現地と本部の意思を結ぶ。

特に海外では、「現地が案を出し、本部は壁打ちで磨く」ことが重要です。トップダウンではなく、現場主語の意思決定で動かす。それがスピードと信頼を両立させる唯一の方法だと思います。


現場を動かすのは人の力

フィリピン拠点は数年で一定の成果を上げ、エグジットして役割を終えました。けれど、私にとってあの経験は、経営の原点です。制度や仕組みよりも、人の温度が現場を動かす。勇気ではなく、仕事の作法としての「突破・やり切り・帳尻合わせ」。あのとき大使館の扉を押して入った感覚、そこで見つけた縁の力を、私は今でも大切にしています。

それは若さの勢いではなく、いくつになっても、どんな時代にも通じる、
人間の仕事の原理そのものだからです。

END

古家由也